がっちゃんの幸福論

大学生のがっちゃんが幸せって何だろうってぼんやり考えて、ぼんやり文章にするブログ

くるしみは分かち合いたい

f:id:ko10noha:20180830150520j:plain

どれだけ近くにいても、その人の気持ちはわからない。

そんな経験ばかりだ、と思う。

寄り添えてるかといったらわからない。

寄り添えてないかもしれない。

わからないことが多すぎる。

わかってないと思われてるかもしれない。

もしかしたら、伝わってないのかもしれない。

信頼関係がまだ築けてないのかもしれない。

リスペクトし合える存在じゃないのかもしれない。

本当は、わかる必要なんてないんだ、とも思う。

人生で感じてきた喜び悲しみ苦しみ、

人から受けた影響。

そこから生まれた言葉だと思うし、

考え方だと思うし、行動だと思うから。

分かってあげられることも、

適切な言葉をかけることもできないけど、

わたしは何があっても味方だと、そう思える。

私は100%あなたを信じてる、と言える。

でも、本当は分かち合いたい。

その目の奥に見える、悲しみも、さみしさも。

分かち合いたい。

これを思ってしまうことがどうなのか分からないけど

わたしはただ、そう思っている。

人と関わっていくって、なんて無力なのか。

悔しいことばかり。

また、ひとのことばかりで、

「いいからおまえは自分のことをかんがえろ!」

と言ってくれる人たちが数名頭をよぎるけれど笑

自分の心に目を向けて、人のこともたまにかんがえて、人生のなんか大切な部分をぐーっと開いている気がする。

そして、それがたまらなくつらくもあり、しあわせでもある。

ここのところ、分かって欲しくて

たくさんないて、たくさん話して、ほどほどに考える。

じぶんの心をみつけて、分かってあげて、ハグする。

少しずつだけど、自分を大切にしていく。

ゆるやかに。

きっと、もう一度走りだす前に、ストレッチをしている。

小ささをおしえてあげる

f:id:ko10noha:20180624162730j:plain

「みんな、小ささって知ってる?」

「そう、こんな感じで、手のひらの中に入るぐらいの」

公園の中を歩いてる時、

男の子がお友達に「小ささ」について話していた。

小さいのではなく、小ささ。

何かの大きさを形容してるのじゃなくて、

「小」という存在そのものについて焦点があたっている。

へぇ、おもしろいなぁとおもった。

例えば自分の小ささってなんだろう。

「びびり」「緊張しい」「できない」「人の感情をうかがってしまう」「流されやすい」

これをやると、小さいなぁと感じる。

自分が大きいなと感じることは基本的にない。

社会の中では、人の心でも、会社の売り上げでも、

成し遂げることでも、

「大きい」を意識することはプラスで、

「小さい」ことはマイナスイメージだよな。

でも、子供のように、

動物のように小さいものは愛おしいし。

人に自分の小ささを打ち明けると仲良くなれる。

小さな会社だって、小さな利益だって、

十分に人を幸せにし得るし。

うーーん、まとまってないけど、

わたしは「小ささは愛おしいもの」だと思ったよ。

少年の問いかけに一生懸命考えてみたけど、

むずかしかった。

手のひらに入るくらいの、小ささ。

その子の手のひらには何がのっていたんだろうな。

子どもはおもしろい。

わたしは、大好きになるという選択をする

f:id:ko10noha:20180523092013j:plain

みんな、好きな人・モノはありますよね。

じんわり胸があったかくなって、興奮したり、しあわせな気持ちになったり、たまにぎゅーって胸が痛んで、泣きそうになったり。

それだけでがんばれる気もするし、

大好きなだけでパワーだし、

大好きなだけでどこまでもいける。

何かを大好きになる人って強い。

でも、私はいつからか、『大好き』になるのをおさえこんでることに気づいた。

これに気づいたのはつい最近。

このまえ、ライフデザインスクール14期の合宿があって、その中で、みんなが大好きだな、出会えて本当に嬉しいし、ありがとうって思える瞬間があった。

胸が、感謝とか大好きという気持ちでいっぱいになったし、幸福感がじわーって広がっていた。

この感覚って、日常の中でほぼ起こらない。

嫌いって言葉はたくさん出てくるのに、好きはない。食べ物も人も物事もみんなふつう。

ちょっぴりそれに気づいていて、

そもそも好きになりそうなものに近づかないとか、ある一定の距離を保ってしまうとか、避けてしまっている。

理由は、こわいから。

好きという気持ちを出してみて、失望するのも怖いし、傷つけられるのも、人にその気持ちを踏みにじられるのも怖い。

好きをないことにしていたり、

気持ちがつたわりすぎないようにごまかしたり。

自分の好き、に自信をもてないし、それを相手に渡すのも申し訳ないきもちになる。

でも、合宿のときに感じた胸があつくなって、しあわせな感じは、心のそこからパワーが湧きでるような、なんでもできるような感覚でした。

好きを大切にする。 ものごとを大好きになる。 ひとを大好きになる。 これからは、そんなじんせいの選択をしたい。

私のきほん1 素でいるということ

私のきほん1 素でいるということ

 

みなさん、自分の基本をもっていますか?

私は、実はひっそりと持っています。

それをもとに動いてきていたし、これからもそう動いていくとおもっています。

わたしの生き方です。大切なみなさんに知ってほしいなって思って書こうと思いました。

 

私が大切にしている価値観、それは

 

「素でいるということ」

 

です。

 

ほんっとうに、曲げられません。これが。

 

「素()」とはなんぞや?と思われるかもしれません。

 

生き方としては、「ありのまま」と同義です。

そして、より「リアル」であり、より「ナマモノ」な感じ。

これは、生まれながら持っていての不変なものでもあり、これから変化していく行動もすべて。

人間という、生き物の本来の輝き。子供の状態。

 

うん、そんな感じ。

伝わっていますかね?

 

私の今の感情、本来の私を大切にしたい。

そして、私は他人であっても、その時その瞬間に生きる生き物として、受け止め大切にしたい。

 

「リアル」な自分の本音、「リアル」な自分の感情。

それは、何も飾らない「素」である状態。

 

「素」は誰しもが美しいのだと思います。”弱く”もあるけれど、”強く”もあるから。

私は、わたしのままでありたいし、他の誰かにはなりたくありません。

 

意見の押し付けも、意見に流されることも、世の中多数に流されることもしたくない。

自分の心に従って、自分の道を歩いていきたい。

この世の中たった一人である「”わたし”の道」を、私はつくる。

 

「素」には、「素直」も含みます。

「素直」に他人の意見を聞き入れるということは、

自分の心が凝り固まってない状態だと思います。

「素直」に意見を言うのもそう。

 

凝り固まるとは、他人の目や、自分自身の存在への不安、自意識過剰状態。

 

素直な状態とは、生まれたての赤ちゃんのような状態。

生まれたての赤ちゃん・子どもは、感情のままに動き、見たものから学び、感じたものから考える。それに、他人の目とか、世論とかはあんまり考えていないと思います。

 

「好きなもの」には好き、という。

「好きな人」には好き、という。

「なんで?どうして?」と思ったものには、素直になんで?ときく。

 

「むかつく」「嫌い」「腹が立つ」は、そのまま伝えると相手を傷つけてしまうので()

「なんで嫌いなのか?」を考える。もし、伝えることが必要ならば、「相手を思った言い方」で伝える。

 

そんな、素直コミュニケーションをおこないたい。

包み隠さず、あなたを知りたい。私を知ってほしい。

理由は、明快で、「私は素の状態がラクで、それでいて美しいから」

 

嘘ついたり、本音じゃないコミュニケーションって疲れます。

その煩わしいコミュニケーションにも、理由があるので、それは否定したくないけれど。

 

 

余談をすると、「おしゃれ」とか、「生活」とかもそういう考えをもっています。

 

「着飾る」のは嫌です。

つけまつげをしたって、ネイルをしたって私は満足できませんでした。

ちょっと派手なアクセサリーだって、イマドキなコンサバ服だってそう。

分厚いファンデーションも煩わしい。

 

「それは、私ではない」

 

私が一番に、私らしくいないと、全然満足できません。

 

おしゃれでいうと、私は「本来の私の美しさを最大限に引き出すもの」ということを考えています。

 

「美しさ」の優劣ではなく、「私にしか持ちえないもの、わたしのありのまま」をより「輝かせるもの」がおしゃれであり、美しさだと思っています。

 

そしたら、似合う服を着るのがおしゃれだし、アクセサリーよりも姿勢をよくすることなんだろうし、新鮮で美味しい野菜を食べることもおしゃれです。(できてないこともたくさんあるけど笑)

 

生活でもそう。

 

「本来の私がどこでも輝けるためにととのえる」場所が家であり、そのための営みが生活です。

洗濯、掃除は、先人たちが言うように、「気づき」の宝庫です。そして、「どうしようもない悩み」から「現実」に引き戻してくれる手段。自分が自分らしくあるための基礎。

 

やっていて、身をもって感じています。

 

無意識に考えていて、やっていることです。

わたしの行動の根本は、本当に、本来の私を「見つけ出し」「輝かせる」ことです。

それは、自分を楽にしていくし、生きることを楽しくしていくことにもつながっているみたい。

 

みなさんの、行動の根本ってなんですか?

ぜひ、きかせてくださいね。

 

春が始まる匂いに大学生活全てがフラッシュバックして、家から飛び出した



なんか春が始まりそうな、始まらなそうな気温に、曇った空。


ちょうど去年の今頃に聴いていた音楽を聴いていたら、なんか、宇都宮での大学生活を思い出した。フラッシュバックした。その時の自分に戻ったような。 



あ、すっごく嫌な気持ちだ。

なんか、怖い。



心の奥から不安な気持ちが湧き上がってきて、家から飛び出している。なう。怖い。不安だ。ぐらぐらする。



大学に入ってから、大きな壁にぶち当たった。今まで感じてた生きづらさを、強く感じる機会が増えた。自分が自分らしくあれなかった。


自分が人の型にはめられて行く感覚。なんなんだろうあれは。何も得られない感覚。全く面白くない感じ。


自分の思ってるようにできない自分。


人目がすごく気になって、人に合わせてカスタマイズした私を提供する、みたいな人間関係。


つまらない飲み会、つまらない会話、愚痴。先生によくみられるため、先輩によくみられるため、男の人によくみられるため

どうでもいい。


すさまじくどうだっていい。

なんか違う、そこじゃない。


私自身が、私の中に、ありのままの〝わたし〟を見つけられない。外からのニーズに応えている自分が100パーセント。

わたしがいたときなんてない。


自分のことも、もともとあんまり言わないタイプだったけど、人に会うのもやめたからなおさら言わなくなった。


もう、人のために無理して合わせるのもめんどくさくなって、全て手放した。


どうにでもなれ。


義務で、幼稚園から高校まで、頑張って学校に行ってたけど、本当は行きたくなかった。


こんだけ我慢してきたんだから、いいんじゃない?って思ったら、もう我慢することができなくなった。


そこから、授業に行くのもやめた。信用を裏切る行為ばっかりしてた。


提出物出さないし、出しても期限過ぎてるし、宿題やらないし、人に見せてもらうし、時間守らないし、恋愛関係も最悪で、まじで。


時間だけありあまってて、バイト行って、少しだけお金稼いで終わり。満たされない気持ちを埋めるために信じられないぐらいの食べ物と酒を摂取して寝る。みたいな。


ことごとく輪をかけて、自分も人も大学も嫌いになった数年間。


人が信用できないとか、怖いみたいな体験もたくさんして、すり減ってた。


でも、武者修行、はぐくむに出会って、やっと前に歩き出せるようになった。


そこから、宇都宮から逃げ出すように休学。

自由に、自分の生き方をカスタマイズして、自分の道を作れる時間。


休学中も色々あったけど、すごく楽しい。


あの時には戻りたくない。


戻ってしまったらと考えると、涙が出るほど怖い。

だから、わたしは東京にいる。

きっとそうなんだな。

もう、戻らないんだ。

届けられない思いなら

f:id:ko10noha:20180219121901j:plain

吐き出したくても

吐き出せない思いがある


言いたくても言えないとか

届けたくても届けらんないとか

秘密にしなきゃいけないこととか

やっぱりあるから


それは創ればいいんだな


そして、小さな願いだけど、これが届きますように。



生きててごめんなさい、のゆくすえ

f:id:ko10noha:20171227211021j:plain




このごろ、人といるとごめんなさいって思う。非常に多い。なんでだろうって思って、書き出してみたら色々わかってきた。



それは、日々、


生きててごめんなさい


と、ずっと謝っていたこと。




思い当たることは過去にあります。みんなの前で言うのって初めてなんだけど、私の母親は精神病を繰り返していました。摂食障害うつ病、アルコール依存、統合失調症。今はだいぶ良くなったけれど。



私の小さい時、母は統合失調症になりました。もう色々併発しすぎて私、詳しい概要はよくわからないけれど、大荒れでした。



ずっと寝たきりで、起きたと思ったら怒って、無視されて。全部病気のせい。



病気を理解できない家族と母の関係も良くなくて、混沌とした雰囲気でした。



幼いわたしが思ったのは、

「わたしが悪い」



というのも、2歳ごろから急に私以外の人たち(家族)の様子が一変したから、多分私が悪いって思ってたんです。病気ということを知ったのも小学校になってから。




毎日母のベットの横でごめんなさいって謝ってました。




そのほかにも、いろんな要因があるとおもいます。本当に。



迷惑かけないようにするのも、申し訳なくなるのも、ごめんなさいとかすみませんが口癖なのも、わたしが自分を悪者だと思っていたから。




わたしは許されたかった。




なんでも言うことをきくから、なんでも私が与えるから、助けるから、癒すから。



お願いだから許して。




私は何ももらえなくていい。私は、人のためのものでいい。自分の存在なんていらない。



幸せになりたいのに、幸せになりたくない。愛されたいけど、愛されたくない。



そうなるべきじゃない。




不幸や苦しさの中にいる方が好きだった。

自分を責めるのが好きだった。責めることで悪い私を罰して心のバランスをとれるから。



そして、幸せになるのが怖い。

それは、罰だけど、甘えもある。自分に幸せを与えるのが嫌悪。自分が幸せになる努力はしたくない。そのほうが楽だから。




そして私は人が怖かった。


治ったと思ってたけど、根本的じゃなかった。

常に加害の意識があるから、常に人に責められるのが怖い。人が気にしないことでも、小さなことで怒られるのが怖かった。

だから自分の粗をみつけては取り繕う。






対人関係って小さい時から、うまくいかないなーとか思ってたけれど、自分は悪者だと思ってずっと謝ってたし、人の表情うかがってたから、そりゃうまくいかないよね。



自分はなんでもできる、自分は諦めないでやれる。

自信はついたはず。



でも、なぜか波が激しくて、人に翻弄されることが多かった。


対面にいる人によって自分の気持ちがすごく変わる、感情が大きく動く。



自分が存在してる罪悪感に悩まされてたんですね。



「ごめんなさい。もう、ゆるして。」

「謝るから、嫌いにならないで」「離れてかないで」


って叫んでました。




「あなたは悪くないよ」

「苦しかったね」

「もう、幸せに生きていいんだよ」


と、言ってくれる人が欲しかったんだ。




だから、私は私に幸せになっていいんだよって言うことにした。


今までお疲れさま。がんばったね。


そんなこんなで、幸せに一歩、ちかづきましたとさ。ちゃんちゃん。